私はティト・マッゼッタ、イタリア系アメリカ人だ。私は永遠の都、ローマで生まれ育ったが、1978年にアメリカに移住して以来、ジョージア州アトランタに暮らし、仕事をしている。
ロレックスは私の心の中で常に特別な存在だった。私の初めてのロレックスは、両親から卒業祝いにもらった、程よいサイズのステンレスとゴールドのデイトジャストだった。70年代初期のローマにおいて、デイトジャストは若い新進気鋭の世代が憧れるドリームウォッチだったのだ。
1978年のいつだったか、アメリカへ移住する前に、私はローマ中心部、カンポ・デイ・フィオーリ広場のそばにあるリシヴィというアンティークジュエリーショップへ行ったことを覚えている。そこで私は自分のデイトジャストを、プラスチックのドーム型風防とヘリウムエスケープバルブを備えた完璧なコンディションの中古品のロレックス シードゥエラー 1665と交換した。オリジナルのボックスと書類付きのシードゥエラーの市場価格は、800ドルだった。
ティトのロレックス シードゥエラー 1665のストーリー
私はそのシードゥエラーが大好きで、毎日身につけていた。たとえそのヘリウムエスケープバルブ、または600mの防水性を実際に試すことができなかろうと、私はその精密性、タフさ、信頼性が非常に気に入っていた。
そして私はアトランタへ移住した。その1年ほど後に、私は小型ボートを購入し、それをレーニア湖に置いていた。春と夏、私は週末を友人たちと湖のボート上で過ごし、ウォータースキーをしたりして楽しんでいたものだった。
ある午後、ウォータースキーをしている最中に、私のロレックスはスキーのロープに引っかかってしまった。あっという間に私の手首からロレックスは奪い去られ、湖の底に沈んでしまったのだ。
私は何時間も必死に探したが、時計を見つけるには湖の水は深く、濁りすぎていた。湖底に潜ってもみたのだが、私の時計を見つけることはできなかった。諦めて家に帰るほかなかった。しかし、岸辺へ戻る前に、私は自分の時計が沈んで行った場所とだいたいのエリアをしっかりと脳裏に焼き付けた。そしていつか、必ずや自分の時計を探しに戻ってくると自分自身に誓ったのだった。
時は過ぎ、それから2年以上たった1981年の冬、地元のテレビ局が干ばつのためにレーニア湖の水位がここ何十年もの間で最も低くなっていると報じた。
これこそが私にとってのチャンスだった。私が近所の店で金属探知機を買い込み、失われた私のシードゥエラーを探しにレーニア湖へ戻ると宣言したときには、友人たちと家族は私がおかしくなってしまったと確信した。
新しい機械と私の唯一の忠実な友である愛犬、ヴィオラだけを連れて、私はレーニア湖へと戻った。
ヴィオラは私がイタリアからアメリカへ一緒に連れてきたナポリタン・マスティフだ。ヴィオラは美しいシルバーの毛並みと緑の瞳を持ち、非常に賢くとても優しい犬だった。自分のマスティフを戦場へ連れて行った古代ローマの兵士のように、レーニア湖へと向かう車の助手席にヴィオラを乗せて、私は戦いへと赴く気持ちでいた。理屈と、信じるない人たちに対しての戦いである。
湖に着いてみると、私は湖岸がひどく後退していることに驚いた。
事実、湖の大部分が干上がってしまっていたのだ。不可能に対する戦いがこうして始まった。何時間も過ぎ、時計をなくした大体の場所だと記憶していたエリアを、私は金属探知機を使って念入りに調べた。
数時間もの間、探してはがっかりしながら過ごした後 (その間、2本のゴールドのネックレスと無数の硬貨を見つけた)、私の脳がそろそろあきらめるときだと告げ始めたちょうどそのとき、私の金属探知機は喜びの叫び声をあげた。私は泥の表面に再び浮かび出ていた私のロレックスを見つけたのだ!
私は自分の目が信じられなかった。私のロレックス シードゥエラー 1665が見つかったのだ
私は喜びにあふれ、そして衝撃を受けた。喜んだのは2年以上も前になくした自分の時計を見つけたから。そして衝撃を受けたのは、信じられないことに、“神がかって” さえいるような偶然により、シードゥエラーが表していた日付と時刻が、私が時計を見つけたその日の日付と時刻とまったく同じだったからである。
そして自分のロレックスが良いコンディションであることに気づいて、私はさらに驚いた。数分の間時計を振ってみると、それは再び動き始めたのである。泥と水の中に埋もれて2年以上もの時を過ごしたというのに。
私はその時計を手首に着け、それから何年もの間、毎日愛用し続けた。それを売るまでの間は。
そう、私はその “特別な” シードゥエラーを売ってしまったのだ。
私は1997年にそれを数千ドルで売却した。
だが、売却した途端に、このことを永遠に後悔するということに気づいたのだった。
なぜ私は時計を売ってしまったのか?それはまた別の機会にお話しましょう。