ゼンマイばねはあまり注目されない腕時計部品の1つ。文字盤やケースとは対照的に、ゼンマイばねが時計ファンの間で熱い議論の対象となることは珍しい。通常、この部品はプレートの下の香箱に入れられており、静かに与えられた仕事を遂行している。しかし、ゼンマイばねは脱進機や輪列機構と並び、手巻きか自動巻きかに関わらず機械式時計の中心的機能要素の1つ。その見た目は地味であるが、時計のエネルギー源としてだけではなく、精度にも重要な役割を果たしている。その機能に相応しく、ゼンマイばねの材料と製造には、メーカーやサプライヤーによって大切に守られている多くのノウハウが詰まっている。そして、構造上の工夫や複数の香箱の組み合わせによって、特別にコンパクトでスリムでありながらも、4週間以上のパワーリザーブを誇る時計が実現されているのだ。つまり、今こそこの過小評価されている部品にスポットライトを当てる時なのである。

ゼンマイばねの一般的特性
ばねは時計の姿勢に左右されないエネルギーの貯蔵を可能にする。そのため、ゼンマイばねは掛け時計や柱時計で使われている振り子駆動を使用できない、懐中時計や腕時計などの携帯用時計に最適な部品なのである。ゼンマイばねの特徴的な渦巻形状は、ムーブメント内の利用可能なスペースと回転運動の必要性から生み出されている。原理的にはその他のばね形状も考えられるかもしれない。しかし、この場合より大きな取付スペースと、直線運動の回転運動への変換が必要となる。
渦巻状のばねの挙動は基本的にシンプルなコイルばねや板ばねと同じであり、定規をテーブルに固定して固定されていない方の端を下に押すことに比較できる。しかし、渦巻状のゼンマイばねでは、ばねの全長を非常にコンパクトに収めることができる。この方法によって、数百mmから1m以上の長さのばねが、香箱という小さなスペースの中に格納されるのである。

ゼンマイばねの設計と特性
ゼンマイばねの剛性は材料と幾何学的寸法、厚み、幅、長さに左右される。厚みを2倍にすると剛性は8倍になる。長さではこれが逆になり、長さを2倍にすると剛性は1/8になる。ゼンマイばねの幅と剛性の関係は直線的で、幅を2倍にすると剛性も2倍になる。また、ゼンマイばねの幅はムーブメント、従って時計全体の厚みと直接結びついているため、幅の広いばねは避けられる。つまり、特定の材料において、ばね厚とばね長さの変化量は変わらない。それらの変更は機械的特性に理論上同じ程度で影響を及ぼすため、香箱内での取り付けなどを含む、その他の諸条件に注意する必要がある。
通常、巻き上げは香箱の中心にある軸によって行われる。この軸には突起があり、そこにゼンマイばねが引っ掛けられる。香箱内壁で、外側のばね端は固定されているか、(自動巻きの場合は) スリッピング・アタッチメントが付けられており、後者はスリップすることで過度な力を逃してくれる。そして、軸と香箱内壁の間の空きスペースは、すべてゼンマイばねのために使用される。ゼンマイの軸直径の縮小にはもちろん限度があり、軸の機械的強度も当然保たれていなくてはいけない。小さな軸直径はゼンマイばねの非常に大きな屈曲を内側端で引き起こすことにも注意が必要で、ここでもばね材料の物理的な限界を考慮しなければいけない。また、屈曲においてより高い材料応力が生じるため、ばねを厚くしすぎてもいけない。要するに、利用可能な取付スペースは香箱直径の限界によって決められるのだ。

「完璧」なゼンマイねじについての問いが、十把ひとからげに答えられるものではないことははっきりとしている。なぜなら、多くの影響要因を考慮する必要があり、ばねの幾何学的特性の変更は他に影響を与えるからだ。従って、ゼンマイばね、もしくは香箱の正確な計算は、経験値と近似公式によって簡略化可能な反復的プロセスなのである。たまたま香箱の寸法が同じだからといって、特定のゼンマイばねがすべてのムーブメントに適合するわけではない。理想的にはムーブメント専用に調整されており、十分にエネルギーを供給した際に最大限のパワーリザーブを時計から引き出せることが望ましい。
また、渦巻状のゼンマイばねの小型化ソリューションには原理に基づく欠点があることにも注意しなくてはいけない。ばねの一般的特性は、時計内部でのばねの使用にとって短所となる。ばね力は増大するばねストローク、つまり追加の巻き上げと共に高まる。そして、不安定な動力は動作中に時計の精度の変動を伴う。この問題がとりわけオート オルロジュリー、および最高級価格帯においてどのように解決されているかについては、以前この記事で焦点を当てた。ほとんどの時計は何らかの方法によってこの問題を解決しなければいけない。この問題を完全に取り除くことはできないが、いくつかのトリックによって最小限に抑えることはできる。その1つが二次巻き工程で逆方向に巻かれたゼンマイばねで、これは香箱から外され自由な状態の時、渦巻状ではなく両端で反対方向に巻かれたS字状になる。取り付けられた状態では、この形状によって動作中全体にわたりゼンマイばねの均一な張力を得ることが可能になる。
材料
はじめに触れたように、ゼンマイばねの材料は高度に専門化された素材である。大抵の場合、メーカーの広告キャンペーンや記事では、時計の「心臓」として脱進機のヒゲゼンマイにスポットライトが当てられる。独自合金、またはシリコンやカーボンの使用によって、この分野は確かにここ数十年で著しい進歩を見せた。しかし、ゼンマイばね用の合金においてもいくつかの画期的な革新があった。

20世紀後半に製造されたヴィンテージ時計のコレクターは、古いゼンマイばねに最も一般的な欠点を熟知している。当時使用されていた炭素鋼は錆びやすく、経年疲労し、その脆性によって折れやすくなってしまうのだ。その問題を改善したのがエンジニアのラインハルト・シュトラウマン。彼の発明である「ニヴァフレックス」は1951年に設立されたニヴァフレックス社によって製造され、それによって「壊れない」ゼンマイばねが大量生産可能になった。また、その名前が似ていることから察せられる通り、ヒゲゼンマイ用の有名な合金、およびニヴァロックス社の設立もシュトラウマンの功績である。ニヴァフレックスは主にコバルト、ニッケル、クロム、そしてわずかな鉄とタングステン、1%以下のベリリウムで成っている。ニヴァロックスもニヴァフレックスも、現在はヘッセン州ハーナウに本拠を置くヴァキュームシュメルツ社によって製造されている。ニヴァフレックスは耐磁性・耐腐食性を持ち、そして何よりも堅固で高性能な材料である。現代の手巻き時計のばねを自らの手で破断させるには、相当な力が必要となるだろう。
ゼンマイばねの製造
ばね製造者はニヴァフレックスをワイヤとして受け取り、それが圧延処理によって帯状にされる。その無端帯の部分が切断され、軸の突起用の穴が自由端の1つで開けられる。端部分でのS字状の逆方向への巻加工は熱処理の後に行われ、それによって最終的な機械的特性が調整される。端フックまたはスリッピング・アタッチメント (手巻き時計用のばねなのか、それとも自動巻き用のばねなのかによる) は端で溶接される。接触を避けられない個々のばね巻線間の摩擦は望ましくないため、ばねにはテフロン加工が施される。そして、ゼンマイばねは香箱内ですでに取り付けられ前潤滑された状態、または輸送用リング内で巻き上げられたばねとして供給される。
ゼンマイばねメーカーとして最も有名な会社には、スイスのGénérale RessortsおよびSchwab-Fellerが挙げられる。高性能ゼンマイばねの重要性は、パテック フィリップ、ロレックス、およびリシュモングループが2015年にSchwab-Feller AGに出資したという事実にも現れている。ドイツにもシュランベルクに本拠を置くばねメーカーCarl Haasがあり、ゼンマイばねだけではなく、ノモス グラスヒュッテなどのために脱進機も製造している。

1つのばねでは十分でない場合 ― 複数の香箱
「Doppelfederhaus」の文字が刻まれたA.ランゲ&ゾーネ ランゲ1のデビュー以来、1つのムーブメント内に複数の香箱を搭載することは特別な時計であることの証となった。さらに、ショパールのL.U.C クアトロには4つの香箱が搭載されている。複数の香箱による長いパワーリザーブは、数多くの時計を所有しているオーナーおよびコレクターにとって便利である。なぜなら、時計を週末または1週間着用しなくとも、再度時間や日付を設定する必要がなくなるからだ。通常、長いパワーリザーブは複数の香箱の直列接続によって実現され、これはゼンマイばねの理論的な延長に相当する。この構造原理の驚くべき記録を持っているのは、連結された11個の香箱が50日間のパワーリザーブを可能にしているウブロ MP-05 ラ・フェラーリ。この時計には巻き上げ専用パワーツールも付属している。直列接続には、ゼンマイの軸によって接続されている香箱の角穴車が互いに噛み合う必要があるため、ムーブメント内で追加の歯車が必要となる。

もう1つのアプローチは並列接続された2つの香箱を使用すること。この方法では、2つの香箱が直接二番車に作用するため追加の歯車は必要とされない。香箱を二番車の左右対称に配置するために十分なスペースがあれば、二番車での通常一方的な軸受力を調整することができる。並列構造はばね力の付加を生み出し、それによって1つの香箱の使用に対して、同じ長さの時に2倍の力が使えるようになる。これは実際には、ばねの高さを半減するために用いられ、それによって駆動力またはパワーリザーブを犠牲にすることなく、特別にフラットなムーブメントを作ることが可能になる。しかし、この構造方式は直列接続に比べ珍しい。また、独立した香箱が別々の機能にエネルギー供給するジャガー・ルクルトのデュオメトル コレクションなどの時計モデルも存在する。

搭載されている香箱の数に関わらず、目立たないケースの内部には人が想像するよりも多くのことが詰まっている。特に手巻き時計において、着用者はゼンマイばねを自身の手で直接巻き上げる。自動巻き時計において巻き上げは間接的に行われるが、それでもゼンマイばねの重要性は少しも変わっていない。今後時計のゼンマイを巻き上げる時、あなたはきっとゼンマイばねの存在を思い出すことだろう。