時々、時計メーカーが数年前に発表したユニークなコンセプトを思い出し、その後どうなったのかと考えることがある。技術的に単に大量生産に適さなかったのか、それとも専門的技術を誇示したかっただけなのかは問題ではない。時計業界においても多くの非常に興味深い革新が途中でとん挫しているのだ。それには様々な理由が考えられる。
この記事ではそのような忘れ去られたコンセプトの印象的な例をいくつか紹介し、記憶を再び呼び起こしたいと思う。それらはすべて量産化されることなく姿を消し、コンセプトウォッチまたは少数限定ウォッチとして初公開された後、ほとんど耳にすることがなくなった。
パテック フィリップのOscillomax
パテック フィリップの時計に実験的かつ前衛的なデザインが施されることは稀である。それに比べ、ムーブメントの技術に関してはより実験的精神に富んでいると言える。これは、早い段階でロレックス、スウォッチ グループ、スイス・エレクトロニクス・マイクロテクノロジー・センター (CSEM) とのコンソーシアムにおいて戦略的に提携し、ヒゲゼンマイ用のシリコン素材を実用化したという事実の産物でもある。そのため、当時のパテック フィリップ製「標準ムーブメント」でさえもが現代的な技術的水準にある。
これではまだ物足りないという方は、パテック フィリップ アドバンストリサーチ (特別に野心的な開発のための部門) を見てみるといいだろう。アドバンストリサーチにいるのは社内の専門家だけではない。例えばパテック フィリップによって資金提供されている、ローザンヌ連邦工科大学のマイクロテクノロジーに関する講座など、外部の大学研究者の研究もこの特別な開発に寄与している。その成果は厳しく限定されたタイムピースに応用され、あらゆる時計メディアにおいて ― しばしば相応の敬意の言葉と共に ― 公開される。この開発が印象的かつ専門的であるだけに、後ほど「通常」のコレクションにおいて目にする、あるいはそもそももう一度他の時計において採用される可能性は低いだろう。
Oscillomaxという名の大々的な開発においても、同じような結果に終わったようであった。この開発はすべての脱進機構成部品、つまりアンクル、ガンキ車、ヒゲゼンマイ付きテンプなどの従属部品にまで及んでいた。従属部品のそれぞれをシリコン製にするだけではなく、新しい製造方法を背景に全く新しく考え直すために数年が費やされた。Oscillomaxが発表される6年前、2005年にシリコン製ガンキ車の発表によって始まりの合図が打ち鳴らされ、重さと慣性が低減され、摩耗耐性と素晴らしい摩擦特性を持つガンキ車が限定モデルのRef.5250Gに搭載された。
次にシリコン技術の恩恵にあずかったのはヒゲゼンマイ。Spiromaxの発表によって、この研究プロジェクトの脱進機部品の名前に接尾辞「-max」が付けられるようになる。この名付けのインスピレーションが、パテック フィリップによって1950年代に開発された可変慣性を持つテンプ、Gyromaxであることは間違いないだろう。2006年にSpiromaxヒゲゼンマイがRef.5350Rでデビューした2年後、ガンキ車が作り直され、新しい幾何学的形状を持つシリコン製アンクルが発表された。このアンクルはシリコンの素材特性によって完全にパレット、つまり合成ルビーなしで機能し、その非対称で有機的な印象を与える形はクラシックなアンクルと大きく異なる。このほぼ完全に作り直された脱進機はPulsomaxと名付けられ、Ref.5450Pに搭載された。
しかし、この成果にパテック フィリップが満足することはなく、従来のテンプ素材 (グルシデュール) から作られ、一般的な形状の輪としてPulsomaxに搭載されていたGyromaxテンプの再設計が行われた。そして2011年、完全に新しくデザインされた脱進機システムOscillomaxの構成部品としてGyromaxSiテンプが発表されることで、長年の努力の最終的な成果が提示された。ガンキ車とアンクルも再設計され、多数の穴を持つさらに複雑な幾何学的形状になった。シリコンベースの素材による革新的なGyromaxSiテンプはリボン形状で、両端にはゴールドが電気めっきで付けられている。それによって重さの大部分をできるだけ端に配置することが可能になっており、最小限の総重量において十分に大きな回転慣性を保証している。さらに、このテンプはできる限り少ない空気抵抗を考慮して設計されており、脱進機のエネルギー消費を抑えている。微調整は従来のGyromaxテンプで知られている調整ねじによって行われる。
「通常」のキャリバー240 Q (永久カレンダーを搭載するムーブメントを「通常」と言えるのならば) から、Oscillomax脱進機の使用によってキャリバー240 Q Siが誕生。このムーブメントはRef.5550Pのパワーリザーブを48時間から70時間へと増加し、精度の安定性を大幅に改善している。
このサクセスストーリーに見える話が、なぜこの記事に含まれているのか?現在、シリコンはパテック フィリップにおける標準的な素材の1つであり、機械式ムーブメントの約90%にSpiromaxヒゲゼンマイが使用されている。しかし、革新的なガンキ車、アンクル、そしてGyromaxSiテンプは、コレクションのどこを見渡しても見つけることができない。この研究プロジェクトは魅力的であったのに、その成果を見ることができる (大抵の場合一度きりの限定モデルとしてリリースされた) 時計は非常に稀なのだ。2017年に発表されたアドバンストリサーチの最終モデル、アクアノート 5650Gでは脱進機ではなく、全く異なる観点にフォーカスが当てられた。Oscillomaxとそのコンポーネントに関して、これらが同社の時計に再び搭載されるかはわからない。ましてや量産されることなどまずないだろう。
オーデマ・ピゲ脱進機
ここでもまた話の中心となるのは脱進機。時計業界において、数ヶ月間稼働するパワーリザーブや未曾有の精度を誇るいくつかの素晴らしい脱進機コンセプトが、洒落た3Dレンダリングでプレゼンされない年はない。これらのプロジェクトは忘れ去られたり、(おそらく) まだ開発段階にあったりする。このオーデマ・ピゲ脱進機は少なくともいくつかの時計に搭載されているが、それはこのコンポーネントがいつの日か新しいスタンダードになることを示しているわけではない。
ここ数十年の間に考案されたすべての革新的な脱進機コンセプトの中で、オメガにおいて量産されるようになったのはジョージ・ダニエルズのコーアクシャル脱進機だけである。2006年に当時のトラディション オブ エクセレンス モデルにて初めて登場したオーデマ・ピゲ脱進機は、ある点ではコーアクシャル脱進機に似ている。オーデマ・ピゲ脱進機も同じく、輪列機構の動力伝達機能と停止機能を分離することで摩擦を最小限に抑えることを目標にしている。そして、摩擦を甘受することで節約され得るルビーバレットでの距離は約90%短くなる。テンプの各半振動中に動力が伝達されるコーアクシャル脱進機とは異なり、オーデマ・ピゲ脱進機はクロノメーター脱進機と同じく完全な振動毎に一度だけ動力を伝達する。それでもなお十分な脱進機の耐衝撃性を保証するために、オーデマ・ピゲはアンクルの望ましくない動きを防ぐ安全機構を考案。このスマートな機構はオーデマ・ピゲ脱進機を携帯用時計に使用可能にする鍵であった。18世紀後半において、時計師のロバート・ロビンはすでにオーデマ・ピゲが同社の脱進機として改良した原型を発明していた。しかし、耐衝撃性が欠けており、製造における精度への要求が高すぎたため、ロビンの夢が彼の存命中に実現することはなかった。
オーデマ・ピゲ脱進機のもう1つの特徴は2つの対置されたヒゲゼンマイの使用で、それぞれのカウンターパートの非同軸振動を相殺している。これはフィリップス、ブレゲ、またはゲルステンベルガー式の複雑なエンドカーブを持つゼンマイに対する別の選択肢となっている。
パレットへの注油を行わないことによって (これはわずかな摩擦によって初めて可能になるのだが)、振動数を驚異の6Hzに設定。油はその振動に伴う高い速度において遠心分離されるため、5Hzのハイビート機においてすでに問題となり得る。高い振動数にも関わらず、このムーブメントは2つの香箱とエネルギー効率の優れた脱進機によって7日間のパワーリザーブを誇っている。
やがてすべての時計にこの脱進機を搭載するとオーデマ・ピゲは2006年に話していたが、現在オーデマ・ピゲのホームページで見つけられるのは、「非売品」と記載されているモデル、ジュール オーデマ コレクションのRef.26153OR.OO.D088CR.01だけである。
ピアジェ700p ― スイス式のスプリングドライブ?
ピアジェは極薄ウォッチと分かちがたく結ばれており、数年前にアルティプラノ アルティメート・コンセプトを発表することで、同社のコア・コンピタンスに忠実であり続けることをはっきりさせた。そして2020年、この一度きりのコンセプトウォッチとして発表された時計は量産モデルとなる。しかし、キャリバー700pにこれは当てはまらない。このキャリバーがその命名においてアルティプラノのキャリバー900p-UCと少々区別されていることは明らかだ。700pはゼンマイばねを動力とする従来の機械式ギアトレインによって大部分が構成されているクォーツ制御式ハイブリッドムーブメント。一般的なレバー脱進機の代わりに輪列機構の端に常に回転し、水晶振動子によって制御される歯車が搭載されている。
これはグランドセイコーのスプリングドライブにおける機能と同じように思われるだけでなく、実際にその通りである。キャリバー700pを搭載するピアジェ エンペラドール モデルは、現在の基準に対して巨大な46.5mmのクッション型ケースでリリースされ、その生産数は118本に限定された。それ以来、このハイブリッドムーブメントを搭載する新しいモデルは発表されておらず、ピアジェによって開発が継続されているという話も聞かない。
この開発の行方とスプリングドライブ・テクノロジーに対する類似性は、いくつかの疑問を投げかける。少なくとも後者の疑問に対する答えは知られており、中には驚く人もいるだろう。スプリングドライブのコンセプトにはすでに数十年の歴史があり、このテクノロジーを量産化できるようにするためにも、グランドセイコーは数十年を要した。その際、1980年代における回路技術は小型化と消費電力の経済性において、現代の水準からは程遠かったことも考慮に入れる必要がある。はっきりと言えば、開発期間はチップテクノロジーにおける技術的進歩によって決定的な影響を受けたのだ。ピアジェはキャリバー700pの開発期間に2年ほど費やした。これは単にグランドセイコーが作り上げた下地を利用し、効率的な回路技術の恩恵を受けただけなのだろうか?
実際、ピアジェはジャン-クロード・バーニーによって1972年に申請された、ゼンマイによって駆動され、水晶振動子によって調整されるムーブメントの特許に拠り所を求めている。現在、事実上スプリングドライブとしてのみ知られているこのハイブリッドコンセプトのアイデアは、70年代においてセイコーエプソンのエンジニアであった赤羽好和だけではなく、西洋のエンジニアの脳裏にも浮かんでいたのだ。Asulab (スウォッチ・グループの前身であるAsuagの研究部門) も、HPM (High Precision Mechanics) という名の似たようなハイブリッドムーブメントの開発を行っていた。
結局、機械式とクォーツのハイブリッド機構を持続的に確立することができたのはセイコーだけであった。そして、ほとんどの時計愛好家にとってただ1つの本物のハイブリッドムーブメントはスプリングドライブだけなのである。Asulabの作り上げた時計を購入することはできないが、それでも野心的なコレクターはピエアジェのキャリバー700pのおかげで、このほとんど実現されなかった駆動コンセプトを持つ別の時計を手に入れることができる。特にスプリングドライブファンにおいて、このような時計は活発な議論をもたらすに違いない。