時計購入に役立つ知識基盤を入門者に提供するために、私たちは以前このマガジンで最も重要なムーブメントサプライヤーを紹介した。同記事では特に手頃な時計を販売し、市場の大部分を占めている大手ブランドに意識的に限定した。今回紹介するのは、マーケットシェアと製造数に関してリードしているわけではないが、その代わりに他にはない専門技術と唯一無二性によって抜きん出ているメーカー。これらのメーカーは既製品のムーブメントの代わりに顧客に合わせてオーダーメイドしたムーブメントや、さらには顧客のために特別に開発したムーブメントを提供している。この記事では最高級ムーブメントメーカーを代表する3社とその背景、そしてもちろん同メーカーの最も重要なムーブメントをご紹介する。
アジェノー
ここ数十年の間、高級ムーブメントメーカーは業界通にしか知られていなかった。なぜなら、ブランドが他社から仕入れた機械式ムーブメントの製造元を公にしたがらなかったからだ。しかし、ハイエンドムーブメントの製造元を公にするブランドが段々と増え、その結果、それまで裏方の役を演じていたマニュファクチュールの知名度も上がることになった。そして、何人かの高級ムーブメント開発者との協力は、コレクター内での高い評価をほぼ確実に約束するほどの評判を得るようになった。ジュネーブに拠点を置くアジェノーは、そのような名声を得ているメーカーの1つである。パルミジャーニ・フルリエ、ヴァン クリーフ & アーペル、ハリー・ウィンストン、アーノルド & サン、MB & F、そしてH.モーザーなど、この複雑機構スペシャリストの提携先を見るだけで同社の実力がわかる。H.モーザーのストリームライナー フライバック クロノグラフは、真に革新的なクロノグラフキャリバー「アジェングラフ」をベースとしている。
この極めて独創的なムーブメントについて語る前に、まずはアジェノーの背景について説明しよう。同社は1996年に時計師のジャン・マルク・ヴィダレッシュと彼の妻であるカテリーナによって設立された。ヴィダレッシュ夫妻はそれ以前にもすでにパートナーと協力して複雑時計、特に逆行機構を製造していた。ところで、このパートナーとは他ならぬロジェ・デュブイで、デュブイ氏は後に自身と同じ名前を冠したブランドを設立し、2017年に亡くなった。
アジェノーはとりわけ複雑機構の開発を手掛けており、広範で垂直的に統合された生産は行っていない。ジャン・マルク・ヴィダレッシュはいつでも専門サプライヤーの伝統的なスイスシステムを確信していた。少量生産および特定のハイテク部品の製造を小さな工房で経済的に行うことは、いずれにしても不可能である。例えば、分割された歯が弾性によって過負荷による損傷や機構内の遊びを防ぐ弾性歯車は、そのような非常に特殊な部品の1つ。これはMimotecのLIGAプロセスで製造され、2002年に同プロセスに含まれる特許がジャン・マルク・ヴィダレッシュに与えられている。同様の弾性歯車を用いたソリューションは2016年に発表された限定のブライトリング クロノワークス、およびバーゼルワールド2019で発表された独特なパテック フィリップ 5212Aにも見ることができる。
MB&Fの非常に独特なムーブメントは別として、アジェノーの大抵のムーブメントは既存の機構をベースとしており、そこに独自設計されたコンプリケーションモジュールが取り付けられている。しかし、冒頭ですでに触れたムーブメント「アジェングラフ」によって、ついに完全に新しく開発されたムーブメントが製造された。このムーブメントは時計技術における近年で最も進歩的かつ革新的な新開発であると言えるだろう。その名前から察せられる通り、このムーブメントは約500個の部品、多くの特許、これまでに見たことのないソリューションが用いられたクロノグラフで、一般的なクロノグラフの欠点が取り除かれている。
アジェングラフ
第一にアジェングラフには積算計が搭載されていない。その理由は、すべての針が中央の軸を中心に回転しているからである。ジャンピング アワー / ミニッツカウンターは正確な視認性を保証し、全く新しい種類のクラッチ機構は古典的な水平クラッチと現代的な垂直クラッチの利点を、欠点を受け継ぐことなく1つにしている。水平クラッチが採用されているクロノグラフが、かみ合わせにおいて不安定になりがちであることはよく知られている。なぜなら、歯が正確に歯の間隙に当たるか決して分からないからだ。これは通常、非常に繊細で鋭い歯を持つホイールを使用することで調整されるわけだが、この部品はより早く摩耗する。「アジェングラフ」(この機構は独自の名称を与えるに相応しいほど画期的なのだ) は2つのホイール層を持つ水平クラッチで、歯を持たない2つのホイールは摩擦接触によって動力を伝達し、特殊な歯形状を持つ追加のホイール層は衝撃を受けた際に力の伝達が途切れ、それによって不正確な測定が行われることを防いでくれる。ムーブメントの自動巻きローターは文字盤側で中央軸の周りを回っており、背面を観察する邪魔にならない。さらに、アジェノーはヒゲゼンマイ用の独自の制御装置もこのムーブメントのために作っているのだが、アジェングラフの優れた性能はまだまだこれで終わりではない。
アジェングラフはファベルジェの「Visionnaire Chronograph」にて初めて採用された。「Singer Reimagined」のシンガー トラック1はメインストリームの高い人気を獲得し、すぐに2018年ジュネーブウォッチグランプリ (Grand Prix d’Horlogerie de Genève) のクロノグラフ賞を獲得。これはアジェノーにとって2007年にベストウォッチメーカー賞を受けて以来得てきた数多くのGPHG賞の1つに過ぎず、これが最後の受賞でないことは間違いないだろう。
ヴォーシェ・フルリエ
あなたが (慈善) 財団の一般的な目的について考えるとしたら、何を思い浮かべるだろうか?教育制度の強化、医療制度の向上、もしくは芸術の支援?これらもスイス医薬品大手企業グループの遺産によって設立されたサンド・ファミリー財団が活躍する分野の1つであるが、私たちが興味を持っているのは、パルミジャーニ・フルリエに関わるさまざまな時計部品のユニークな小宇宙を作り上げた、この財団の時計製造に関わる活動である。
このような一歩を踏み出す決断は、財団のコレクションの修復を一任された名高い時計修復師、ミシェル・パルミジャーニとのつながりから生まれた。その並外れた才能に感動した財団はミシェル・パルミジャーニと同氏のブランドに投資することに決め、ケース、回転部品、文字盤などのメーカーを次々と買収することで、オート オルロジュリーを製造する体制を整えていき、今では脱進機もグループ内のアトカルパ社によって製造されている。もちろん、自社ムーブメントの構想と製造はヴォーシェ・フルリエ氏によるものだ。
パルミジャーニ・フルリエの持つこのような生産能力は少々度を過ぎているように見えるかもしれない。そのため、ヴォーシェ・フルリエとサンド財団に統合されている他のメーカーが外部からも受注していることは特に意外でもなく、経済的にも有意義なことだろう。「Vaucher Private Label」は高い品質を求める若いブランドおよびミクロブランドに、自社では製造できない高品質なムーブメントを使用できる経済的な可能性を提供している。このためにヴォーシェは25個の部品から小ロットで提供しており、ムーブメント1つあたり2000スイスフラン (約23万円) 以下で購入することができる。
ヴォーシェの最高級製品に数えられるのは、トゥールビヨンムーブメントと現代的な一体型ハイビート クロノグラフムーブメントVMF 6710。後者はクラウドファンディングによって資金調達したオート オルロジュリーブランド、チャペックのモデル「フォーブル・ド・クラコヴィ」に搭載されている。その数年前、PF361という名称でさらに高級なスプリットセコンド付きクロノグラフムーブメントが発表されており、これはトンダ クロノール アニヴェルセールに使用された。技術的にPF361に似ているVMF 6710は、外部顧客用の「合理化された」バージョンであると言えるだろう。
しかし、ヴォーシェのベストセラーは間違いなくスモールセコンドとマイクロローターを搭載した3針ムーブメントである5400シリーズである。このムーブメントが搭載されている有名な時計にはスリム ドゥ エルメスが挙げられる。この時計は特にドンツェ・カドランのエナメル文字盤付きの仕様において、「ファッションブランド」としての評判があったとしても機械式高級時計の市場で真剣に受け止められる方法を示している。現在、エルメスはヴォーシェ・フルリエの25%の株式を保有しており、それが実り豊かなパートナーシップを証明している。もちろん、これと同じムーブメントベースは、より高価な代わりにムーブメント表面のより高い仕上げレベルを提供しているパルミジャーニ トンダ 1950など、内部でも使用されている。
クロノード
ここで紹介したい3つ目の会社は筋金入りのファンにしか知られていない。しかし、クロノードが開発に携わった時計の知名度が低いとは、絶対に言うことができない。
2005年、クロノードはそれまでIWCで指導的役割を果たしていたジャン・フランソワ・モジョンによって設立された。同社の成功はジュネーブウォッチグランプリ2010におけるベストウォッチメーカー賞の受賞という形でもすぐに現れ、これは興味深いことにアジェノーのジャン・マルク・ヴィダレッシュと共に得た成果であった。また、同社はヴォーシェ・フルリエとのつながりもある。クロノードの最新の開発の1つはムーンフェイズ コンプリケーションが搭載されたエルメス アルソールゥール ドゥ ラ リュンヌ内で時を刻んでいるのだが、これはヴォーシェ社製ベスキャリバーにクロノード社製モジュールが搭載されることで実現された。また、若手ブランドのチャペックが先述したヴォーシェ社製クロノグラフムーブメントを搭載する以前に、クロノードは初代チャペックモデルであるケ・デ・ベルクのムーブメントを仕立て上げていた。高級ムーブメント開発者の世界はあまり大きくないようだ。
クロノードの影響の大きさは、同社が高度な専門技術を提供してきた時計製造大手によって示されている。HYT H1は発表当時他に類を見ない時計で、それによってクロノードは時計製造技術の一端を担うこととなった (細いプレキシガラス製のキャピラリー内の色がつけられた液体による時間表示はHYT子会社のPreciflexに委託された)。
クロノードは、オーパス モデルシリーズのために時計製造における数多くの類いまれな才能と契約を結んだブランド、ハリー・ウィンストンのためにも、ダイヤルが太陽系の惑星のように軌道を描くモデル オーパスXを手掛けた。
また、MB&Fのマクシミリアン・ブッサーもハリー・ウィンストンと同様のアプローチを取っている。「F」は「Friends」を表しており、これはアイコニックなモデルの製造に携わった協力者を意味している。クロノードのジャン・フランソワ・モジョンは、カリ・ヴティラィネンと共に有名なレガシー マシンLM1、およびその後継モデルであるLM2の製造に関与した。これと同じことはスーパースポーツカーにインスピレーションを得たオロロジカル・マシンHM5にも当てはまり、この時計ではモジョンの他にクロノードのもう1人の協力者、ヴィンセント・ブーカードもムーブメントの生みの親として名を連ねている。
これまで挙げてきたクロノードの開発が突飛すぎると思われる方には、ウルバン ヤーゲンセンのムーブメントUJS08が気に入るかもしれない。このムーブメントには腕時計における初のクロノメーター脱進機が搭載されているのだが、これは単なる精密脱進機の小型化ではなく、衝撃感度が改善され、欠けていた自動スタート機能も追加されている。このモジョンの成果は、自身が考え出したコンセプトを実現する前に亡くなった天才デレク・プラットの仕事の上に成り立っている。