長らくの間、脱進機にシリコン部品を使用するのは限定版のコンセプトウォッチに限られており、一般のお客様には古典的な製法のモデルしか選択肢がなかった。この20年で、シリコン製のゼンマイは手頃な価格のコレクションにも多く採用されるようになり、ティソが導入して以降はシリコン製脱進機がマス市場に登場するようになった。
スウォッチ・グループが独占技術であるはずのこの製法を、エントリーレベルのブランドにまで採用しているのは偶然ではないだろう。特定のシリコン製ゼンマイに関わる特許は、CSEM研究所、ロレックス、パテック フィリップ、スウォッチグループが参加する研究コンソーシアムに一定の独占体制を保証してきたが、それも20年が経過して、世界中で期限切れを迎えようとしているのだ。
競合他社の中にはすでに早くもスタートラインで待ち構えているものもいる。シリコン部品はその特性だけでなく、特に生産プロセスが効率的だという理由で、業界の新しいスタンダードになることは間違いないと見られている。
シリコン部品を使った脱進機が新しいスタンダードになると、気になるのは次に来るのは一体何だろうということだ。断定的な予測できないが、次のステップはテンプ、ヒゲぜんまい、アンクル、ガンギ車から成る従来の脱進機から、シリコンやマイクロシステム技術だからこそ成し得る全く新しいタイプの脱進機への進化だろうと思う。シリコンが初めて導入された時と同様、この傾向はまずハイエンド製品で始まったが、今では70万円を下回る製品にも広がっている。ここ数年のダイナミックな動きを見てみよう。
フレクシャー:未来の時計作りの基礎?
時計の脱進機の革命はまだ起きていないが、その道を開く可能性のあるコンセプト自体は新しいものではない。言語によって、「Elastische Festkörpergelenke(弾性固体ジョイント)」、「Compliant Mechanism(コンプライアントメカニズム)」、あるいは「Flexure(フレクシャー)」など呼び方が異なる。3つ目の呼称は文献や市場でもある程度定着しているようなので、ここでは統一のために以下「フレクシャー」とする。
これは力を伝えたり、動きの自由度を特定の度合いに制限したりするのに弾性のみを利用するモノシリック(一体成形)パーツのことだ。バネやガイド、ベアリングなど複数の部品でアセンブリーを組むのではなく、素材単体の形状や弾力性だけを利用する。言葉の上では非常に複雑に聞こえることも、日常的な例を挙げて説明すれば分かりやすいだろう。このような機構の典型的な例が爪切りである。通常の爪切りはプレス加工で打ち抜きした金属板でできており、バネや軸もなく、それ自体の弾性だけで切断動作を行う。もうひとつの例は食品保存用のキッチンクリップだ。クリップがパチンと留まるのはプラスチックの素材自体の弾力性によるものだ。クリップが開いている状態の時に、パーツの半分同士の極めて薄い接続部分を動かすことができるのも、同じように素材自体の弾力性のなせる技だ。
このような機構は古くから日常的に知られているのに、なぜ今、時計を考える時に面白いのだろう。答えは簡単で、ものづくりにおけるマイクロシステム技術の可能性が高まったということだ。マイクロシステム技術によって、一回の作業工程でコンピュータで設計した部品を大量に、しかもほぼ完璧な形状で生産することが可能になった。時計部品には高い精度が要求される中、厚さ数1000分の1mmのスプリングジョイントをもつ微小部品を、従来のような量産体制で生産することは不可能だった。このような繊細な構造には、旋盤加工やフライス加工といった一般的な減法製造プロセスは適さないのだ。
手頃な価格で最初に量産された時計が、こうしたコンセプトによって実現できるのは、部品点数や後工程、調整の手間を最小限に抑えることだけではないことを証明している。クロノメーター性能やパワーリザーブに関しても、ヒゲぜんまい、アンクル、ガンギ車から成る古典的なテンプを使った時計を凌駕するポテンシャルを持っている。すでにシリコン部品を使用しているものでさえもだ。
パルミジャーニ・フルリエの忘れ去られた画期的業績
シリコンやマイクロシステム技術に関する経験が豊富なCSEM研究所は、大規模な研究コンソーシアムでのみ活動しているわけではない。2016年には、やや小規模ながら高級ブランドであるパルミジャーニ・フルリエとの協力で脱進機を発表している。これは発明者ピエール・ジェネカンにちなみ非常にシンプルに「ジェネカン脱進機」と名付けられた。
この脱進機は確立された2つのコンセプトを組み合わせ、革新的で画期的な設計に一体化させたものだ。ひとつは伝説の時計師ジョン・ハリソンによる、摩擦を最適化したコンセプトだ。ハリソンのグラスホッパー脱進機はジェネカン脱進機の作動原理のモデルとなった。2つ目は、本稿にこれから繰り返し登場することになる「フレクシャー機構」だ。
ジェネカンはハリソンのグラスホッパー脱進機を取り入れ、摩擦を起こす軸の代わりに、ごく薄い板バネを一体成形のローターに統合した。ここに「アンクル」も取り付け、摩擦を起こす軸受けの代わりに、弾性のある板バネを利用している。これで理論的には材料の内部摩擦と、もしかしたらエネルギー伝達とエネルギー伝達の間で空気抵抗がオシレーターの振動を減衰させるかもしれない、というくらいしか懸念は残らない。
グラスホッパー脱進機の発明をもたらした主な動機は、原理上摩擦の少ない動力伝達を実現することだったが、これはシリコン部品を使用することでさらに改善された。結果として、パルミジャーニがSIHH(ジュネーブサロン)2016で発表したコンセプトウォッチ「Senfine(センフィネ)」は、70日間という驚異のパワーリザーブを実現するのに成功した。オシレーターの周波数は16Hzと高い。
SIHHは名前こそ過去のものとなったとはいえ、実際はWatches & Wondersとして続いているが、ジェネカンとパルミジャーニの奇跡の脱進機のその後の行方は不明である。工業化・小型化の難しさに関する逸話はあるが、確たることは分かっていない。
たとえ、センフィネのコンセプトが経済的に、あるいは当時の生産技術では実現不可能だったとしても、この試みは革命的と言うしかない。徐々にではあるが確実に、競合他社がセンフィネに匹敵するコンセプトを手頃な価格で市場に登場させているのが、その何よりの証拠である。
ゼニス デファイ ラボ:少量生産のイノベーション
ゼニスにとって、2017年は新しいデファイコレクションを発表した極めて重要な年だった。マスコミの注目は、2つの脱進機と50Hzクロノグラフを搭載した、コレクションの代表作ともいえるデファイ エル・プリメロ 21に集まっていた。コレクションにはこのエル・プリメロ 21モデルおよび従来のエルプリメロを搭載したモデルとともにデファイ ラボが並んだ。
常設コレクションに加え、ギィ・セモンを中心とする開発部門による画期的な新開発も発表された。ギィ・セモンはLVMHの時計部門ですでに数々の技術改良を手がけたチームを率いた人物だ。
デファイ ラボは新しいデファイ・コレクションのスタイルで登場し、数メートル離れた距離からはデファイ エル・プリメロ 21のスケルトン・バージョンと見間違いかねない。しかし、アルミニウムフォーム(発泡体)にプラスチックを加えた複合体素材「エアロニス」を使用した超軽量ケースの内部に搭載されたのはまったく別のキャリバーだった。
デファイ ラボの内部を見ると、非常に複雑な形状のローターがあり、薄いバネ部を見ればこれがフレクシャー機構であることが分かる。デファイ ラボの場合、従来の脱進機と同系なのはガンギ車までだ。その後に続く30数点の部品はすべて、モノリシックな「ゼニス オシレーター」に置き換えられている。驚異的な15Hzで60時間のパワーリザーブを実現し、さらに素晴らしいことには、ゼニスの発表によるとクロノメーター性能は日差わずか0.3秒と報道されている。
LVMHはこのプロジェクトを自分たちの力だけでやり遂げられたわけではない。このオシレーターはデルフト工科大学のスピンオフ企業であるフレクサス社と共同で実現したものだ。その名の通り、この企業もフレクシャー機構の研究をしていた。フレクサス社のホームページを見ると、時計に弾性部品を使用することで得られる数々のアドバンテージが挙げられている。つまり、パワーリザーブの長時間化、部品数の削減、時計自体のスリム化、そして潤滑油の不要化だ。
2019年、遂にデファイ ラボの技術がデファイ インベンターという名で市場に提供されるようになった。このモデルは現在もさまざまな販売店のリストに載っており、本稿執筆時点ではChrono24でも1本販売されていた。しかし、ゼニスのホームページではこのモデルの項目は空白で、2019年の発表以降、デファイやエル・プリメロなどの他のモデルに力を入れていたようだ。
製造の手間のせいか、経済性の問題か、あるいは関心が集められなかったためか、部外者としては判断がつかないが、ギィ・セモンの開発チームによる天才的な創作品が引き出しに眠ってしまうのは、これが初めてではないようだ。筆者は今、ミドルプライス部門の真のイノベーションを約束したオータビア アイソグラフが採用したカーボンナノチューブのヒゲぜんまいのことを思い出している。この製品の命は残念ながら長くは続かなかった。大規模な製品回収の後、カーボンコンポジット製ヒゲぜんまいの表記は消え、従来のヒゲぜんまいを搭載したムーブメントに変更された。マスコミの報道によると、このヒゲぜんまいをアイソグラフのような人気モデル用に工業化するのは難し過ぎることが分かったとのことだ。
この逸話は、革新的な技術を持つブランドが緊張の場に身を置いて活動していることを深く感じさせる。ラボとインベンターの野心的な技術に、ゼニス、あるいはLVMHでの未来があるかどうかは、現時点では誰にも分からない。
フレデリック・コンスタント スリムライン モノリシック:量産におけるブレークスルー?
画期的な脱進機コンセプトを採用した時計の中で恐らく最もマス市場向きと言えるのは、フレデリック・コンスタントのものだろう。スリムライン モノリシックは、ゼニス デファイ ラボのオシレーターも手がけたフレクサス社と共同で開発されたもので、この2つの脱進機のコンセプトが類似しているのはそのためだ。
スリムライン モノリシックに搭載されたオシレーターは、ゼニス デファイ ラボのようにケース径全体を占めてはいないが、どちらかといえば保守的なデザインの文字盤上で目を引く存在になっている。予想通り、このコンパクトなサイズのオシレーターは、ゼニスやパルミジャーニのものよりも振動がはるかに速く、40Hzで振動する。
もし、このような前代未聞の周波数を古典的な時計に実装するとしたら、パワーリザーブが数時間、あるいは数分にまで減ってしまうことを覚悟しなければならないだろう。しかし、スリムライン モノリシックではそんなことはなく、ゼニスをも上回る80時間のパワーリザーブを実現している。また、2つのウエイトを調節することで微調整が可能だ。
かつてパルミジャーニが発表した数カ月間のパワーリザーブにはまだほど遠い。クロノメーター性能も日差-4/+6秒と、平均的なレベルだ。もちろん、競合他社が示しているように、この技術にはまだ多くの可能性が秘められている。ただ、さまざまなコンセプトや、少量生産から大量生産への移行には多くの難題が横たわる。だからこそ、フレデリック・コンスタントとフレクサス社の功績は決して過小評価すべきではない。
公式には限定生産となっているが、生産本数が3桁台後半のものもあり、量産と言ってもおかしくない。常設コレクションになる可能性について、フレデリック・コンスタントはまだ沈黙を守っており、最初の限定ロットの反響を待ちたいと考えているようだ。
筆者に予言する能力はないが、時計作りにシリコンを使うことに対する当初の批判を思い出し、現在ではシリコンが色々なところで応用されていることを考えれば、フレクシャー脱進機にもバラ色の未来があると予言できる。当面は古典的なレバー脱進機が主流であり続けるだろうが、それに代わる革新的な技術がニッチ分野からさらに広がるだろう。問題は次の一歩を踏み出す勇気があるのは誰かということだけだ。